アダム・エリオットとの対話
- 聞き手
- 金子勲矩
関口和希
ひらのりょう - 構成
- 土居伸彰
ホワイト健 - 収録日
- 2025年3月20日
第3回新潟国際アニメーション映画祭・長編コンペティション部門にて上映された『かたつむりのメモワール』のアダム・エリオット監督に、第一期公募枠アーティストの3名がインタビューを行いました。当記事では、そのインタビューの模様を再構成してお届けします。
『かたつむりのメモワール』は同映画祭で「傾奇賞」を受賞。昨年のアヌシー国際映画祭でも長編クリスタル賞(最高賞)の栄冠に輝くなど、世界中で高く評価されています。
「クレイオグラフィー」と呼ばれる独特の作風で知られるエリオット監督の制作プロセスや、6月27日から日本公開も開始した新作『かたつむりのメモワール』について紐解くロングインタビュー。

アダム・エリオットと「クレイオグラフィー」誕生秘話
初めてアニメーションを作ったのは、1996年に大学院で『アンクル』を制作したときです。25歳のころですね。まだまだ若くはあったのですが、その頃にはもう友達がみんな医者になったり弁護士になったりと仕事を手にし始めていました。周りが資格や学位を手に大学を卒業する頃、私はといえばようやくストップモーションを作り始めて、もっと早くにアニメーションに出会っていれば、と思いましたが、当時のオーストラリアにはほんの数ヵ所しか映画学校がなく、さらにアニメーションは大学院で1年制のコースがあるくらい、という程度でした。
最初の作品に取り掛かったときから、私自身の自伝的なものでもありながら、自分の家族にまつわるものでもある映画を伝記のようなフォーマットで作りたいと考えていました。「クレイメーション」(粘土を用いた立体アニメーションを表す言葉)という言葉を知ったとき、「ああ、私はこれがやりたいんだ!」とすぐに思いました。
ただ、「クレイメーション」という言葉は商標登録されていて、自分で思うように使うことはできないことも分かりました。ならば自分で考えてみようと思い、クレイ(粘土)とバイオグラフィー(伝記)を組み合わせた「クレイオグラフィー」という言葉を思いついたのです。その結果、ウィキペディアにも項目ができるくらいに認知されるようになりました。自分がどんなジャンルのどういった作品を作る映画監督かということを簡単に説明できるので、良い言葉でした。

脚本の書き方
私は少し特殊な書き方をしていると思います。多くの脚本家はまずプロットを用意し、キャラクターを用意し、キャラクターを紹介して、これをこうする、こんな問題が起きて、物語のなかでその問題の解決に取り組む、最後にはハッピーエンド、というふうな書き方をします。
私の場合はそうではなく、ノートをめくります。私はかなり移動の多い生活なので、いつもノートを持ち歩くんです。すると、例えばホテルのロビーで誰かを待っているときに、傍からのの会話が聞こえてくるかもしれません。そういうときに、すぐその話を記録できるんです。私はそうやってスポンジみたいに周りにあるものをたくさん吸収しようとしています。もしかしたらそういうところから次の映画のネタが見つかるかもしれませんから。
ノートへの記録は30年前からずっと詳細に続けていて色や匂い、引用、詩、名前など、これまで聞いたり食べたりした面白いものがずらりと一覧になっているわけです。映画を作るときには、落ち葉掃除のブロワーを出したい、あとナメクジもいいな、とか、全部書き出して、どう繋げたものかと考えます。こうすることでストーリーの諸要素も複雑に絡み合い、ひとつの頑丈な物語が編み上がります。
問題はこの複雑な構造ができたとき、ひとつの要素を抜いてしまうと全てが崩壊してしまう危険があることです。なので、脚本にはものすごく時間がかかります。今回の映画でいえば、「カタツムリは前にしか動けない」ということを知ったとき、これは「人生は振り返って後ろ向きに顧みられるものだが、我々は前しか向けない」というノートに書いてあった言葉と接点ができたなと思いました。さらに、カタツムリの進んだ場所には痕跡が残ることを知って、「グレース、きみは外の世界に踏み出して自分の粘ついた足跡に別れを告げるべきだ」というセリフを思いついたり……とか、こうした繋がりを探し続けるんです。そうすると、第五稿くらいのころにははだんだんストーリーが見えてきて、自然と三幕構成に収まっていくんです。
私の映画は家族や友人をモデルにしていて、ドキュメンタリー的とまでは言いませんが、かなり自伝的な側面があります。したがって家族からいろいろな要素を引用しています。『かたつむりのメモワール』であれば、主人公2人の父親であるパーシーがフランス人であることの理由のひとつは、父親がモデルだからです。父はエンターテイナーとしてピエロのような仕事をしており、日本やフランスを訪れていました。
ピエロはいつも笑顔を貼りつけていますが、同時に悲しそうにもしている。そのため、パーシーはとても優しく、しかしながら同時に酒飲みで常にぐったりしていて、鬱に苦しんでる悲しい人物にしました。フランス人にした理由はというと、フランスの助成金を利用する都合上、フランス文化を映画になるべく多く織り込む必要があったからでした。実はそういった経済的な理由があります(笑)。
けれど、実際に日本とフランスは私の最も好きな国でもあります。全く異なる二つの国ですが、芸術や文化を強く愛しているという点では共通している。特にフランスにはルーヴルのような巨大な美術館もありますしね。パーシーは子供たちに本をたくさん読ませるのですが、それはただ文学の重要さを教えているというだけではなくて、芸術や文化といったものの大切さを伝えているんです。その表現として、作中には「読む」シーンがたくさんあります。貧しい家庭であるにもかかわらず、パーシーは子供たちに文化的な体験を与えようとしているわけです。
私は最近よくドキュメンタリーを観るのですが、「事実は小説よりも奇なり」という言葉通り、現実にはおよそ思いつかないような奇妙なことをたくさん知ることができます。例えば、『かたつむりのメモワール』では、登場人物のひとり(ピンキー)がキューバの独裁者、フィデル・カストロと卓球をするシーンがありますが、実はあの部分は実話に基づいています。高齢の友人が1960年代にキューバでカストロと卓球をした話を聞かせてくれたんです! 冗談だろうと言ったんですが、どうやら本当の話だったようで、これはすぐさま映画に入れなければと思いました。こういった話はどうやっても自力では思いつけません。いったい誰が「カストロが卓球を遊んでいる姿」なんてものを想像できるでしょう。しかネットで検索してみると、カストロが卓球をしている姿を収めたたくさんの白黒写真が出てくる。現実にはこういうことがたくさんあるので、私はドキュメンタリーが大好きなんです。
グレースがアニメーションを生業にしようと決断する時期は普通に考えると遅いのですが、そもそも私がそう決断したのが25歳ですからね。彼女は大した作品を作ることもできず、誰も観には来ないのですが、私だって映画祭の質疑応答の時間に誰も現れないなんて経験は一度や二度ではありませんからね(笑)。あのシーンはそういう意味でちょっとした遊びの面もあります。

ユーモアと残酷さのバランス
私は自分の作品のなかに、陰と陽、明と暗をどちらも等しく含めようとします。なぜなら、私たちの生きる人生にも幸せなときと悲しいときの両方があるからです。だから、私の映画はジェットコースターみたいに幸せの絶頂と悲しみのどん底を行き来する構成になっています。言い換えれば、私たちの人生における「山あり谷あり」を表現しようとしています。私の出身地のオーストラリアに限らず、日本やスウェーデン、イランなど世界中のあらゆる国の人々が誰しも経験するような人生を描きたいんです。どうしてかといえば、根本的な部分では世界中の誰しもが同じように幸福と絶望、良い瞬間と悪い瞬間を経験するものだと信じているからです。
しかし同時に、映画の中で人生の暗い部分を描くのであれば、コメディで中和すべきだとも思います。「笑い」というのは多くの場合、高まっていく緊張感を和らげる働きをしてくれるものです。誰かが冗談を言うとき、最後にはパンチラインがあって、オチが来ることで笑えるし安心できるものです。だから私は緊張感を高め、ドラマやサスペンスを作り上げて、最後にそれを和らげる笑える瞬間を挟むのが好きなんです。さながらオーケストラやシンフォニー、クラシックなどの演奏で音楽がどんどんビルドアップし、シンバルが大きく響くところで演奏が絶頂を迎え、それからだんだん静かになっていくように。
そういう意味で映画というメディアは音楽的だと思いますし、ポップソング的だとすら言えるかもしれません。メロディがあり、サビがあって、そのあと静かにフェードアウトしていく。私はそれを「ジグザグ」と呼んでいますが、多くの優秀な映画にはこのジグザグ構造があると思います。たとえば、コメディ映画は面白さだけを追求すれば良い、という点で単純ですが、それだけだと感情に訴えかけるものにはなりづらく、空虚な感じがしてしまう。だから私が作ろうとしているのは、全ての観客に寄り添うことのできる、温かくて感動的で、けれども同時にこの先いつか観返したくもなるような映画なんです。最近だと、アカデミー賞を獲った『ANORA』(2024)という作品が気に入っています。アニメーションではないですが、あの映画には多くの人間ドラマがあり、かつ先ほど言及したような暗さも備えています。

「不運」は便利!
「不運」はとても便利で、よく活用します。外で歩いているとき、鳥のフンが頭上に落ちてくるかもしれない。頑張って走ったのにバスに間に合わないかもしれない。私たちはみな、不運な瞬間があります。映画のなかで自分のキャラクターにそのような瞬間を持たせることができれば、あなたのキャラクターはより好感の持てる、何より共感できる存在となるのです。悪役を作っているときでも、好感を持てるキャラクターにするのは大事です。『羊たちの沈黙』にはハンニバル・レクターという食人鬼の悪役が出てきますが、彼はとても好感を抱きやすい人物像になっています。犯罪者にもかかわらず、愛らしさがあり、気に入りやすい。悪役であっても好感を持てる人物像にすることは可能です。
私が映画制作で心掛けているのは、全ての登場人物が好感の持てる何らかの要素を備えるようにすることです。ピンキーは分かりやすくとても愛らしい。グレースは不運だらけで悲しげな人物ですが、「私もこんな不運や孤独を感じることってある」「こういうふうに勘違いされることってあるな」と思える。そういう意味でグレースの人物像はとても普遍的です。それからギルバートも。彼は怒りっぽい性格をしています。私たちはみな怒ります。彼は自分と世界の両方に対して怒っていますから、視聴者も共感しやすい。ギルバートの彼氏のベンも。彼は逃れられない落とし穴で足掻き続けています。檻に閉じ込められて逃げられないように感じることは誰しもあるものでしょう。要するに、全ての人々と同じような経験をもつキャラクターを作るべき、ということです。
そのなかでも、「不運」はとても使いやすい。誰しも完璧ではないからです。アイアンマンのようなスーパーヒーローでさえ、度重なる不運に見舞われるためにとても親しみやすい。死因さえもが不運によるものですからね。けれど、面白いんです。ペッパー・ポッツに恋をしているけど、それを隠し通さないといけない。おっちょこちょいだし、見ていて気まずい。完璧なスーパーヒーローではないんです。身体を怪我しているし、精神的な問題も、両親との軋轢もある。そういう部分が、彼をヒーローであると同時に人間たらしめています。だからこそ、あの手の映画は成功する訳です。スーパーマンも、クラーク・ケントとしてルイ・ラングと一緒にいるときはドジで気まずい人物です。このような経験は誰しもが持っていて、また相手がそうであった場合にも愛情を抱きやすい要素である訳です。そういうふうに観客に感じさせる、というのが難しい部分ですが。

アニメーションの難しさと、楽しさ
言うまでもなく、映画が完成して観客に見せたとき、つまり大きなスクリーンで上映して観客が笑うのを聞く瞬間はとても楽しく、達成感に満ちたものですね。泣いたり驚いたりといった反応を得られる瞬間は素晴らしいものです。私が映画を作る理由はそれです。時にはジョークが滑ったりしますが、まあ、そんなこともありますから。
ときどき、「賞をもらえると嬉しいでしょ?」と聞かれます、もちろん少しは嬉しい気持ちになりますが、いつもその翌日になると虚無感を覚えるんです。そういうものは一瞬の出来事でしかないので。制作費用を集める助けになったりはしますが、賞は映画を作る理由には絶対になりません。
また、「どうすればアカデミー賞を獲れるの?」と聞かれることもあるんですが、私はよく「まずアカデミー賞を狙うな、考えもするな」と返します。「全く考えずに良い映画を作れば、結果はおのずと付いてくる」と。映画祭でも同様です。ときどき勝つこともあれば、ときどき負けることもあります。しかもその結果は多くの場合、公平ではない。審査員をするときにも、賞を獲るべきでないと思った作品が受賞することなんて多々あります。審査員同士で口論をすることだってあるくらいです。だから、映画祭が不公平なのは事実として理解しなければなりません。真に賞を受賞すべき作品が受賞することはそうそうありません。
ですが、だからこそ映画を作るのだとも言えます。人と繋がるために作るのです。私が今のSNSで素晴らしいと思うのは、ときどきインスタグラムなどで知らない人から「去年、鬱に苦しんでいたときにあなたの映画を見て、その作品が立ち直る助けになりました」というよいうなことを言ってもらえたりするんです。映画は単なる娯楽以上の存在で、実際に人を助けることができるんだ、と気づけるのです。
私は現在53歳で、せいぜいあと3、4本しか映画を作れないでしょう。年をとるにつれ、自分が死んだあとに残せるレガシーを築いてきたことに気がつきます。それはあなたが死後どのような人物として記憶されるかを決定するものですから、良いものを残せるようにしたい、と思えるようになります。
例えば、私の作品はただ面白いだけの映画かもしれない。それでも、たくさんの人を笑わせることができた映画です。インターネットの素晴らしいところは、あなたの作品が永久に残り続けるという点です。勝手に転載されたものかもしれませんが、必ずどこかには残ります。そのおかげで今この瞬間も、世界のどこかでは誰かが私の映画で笑ってくれていると分かる。
映画はたくさんの、何百万もの人に届く可能性を秘めています。私たちのような映画制作者はエンタメ業界の人間で、芸術家でありながらも、物語作家でもあることができて、しかもたくさんの人に作品を届けられます。世界が過剰に映画が存在しているのも事実です。昔よりもずっと競争がある。でも良いニュースは、そのなかの大半は凡庸な作品だということです。なので、良いものが作れる、というのは実は希少な能力である訳です。つまらない作品はいっぱいあるからこそ、良いものが現れるとみんな喜びますし、目立つことができます。
映画を完成させて観てみると、全く気に入らないことや、やり直したいと思うことだらけです。作る度に、映画は絶対に思い通りにはいかないのだと分かります。でも、観客に見せると「あれ、良いじゃん」という反応が得られたりするのです。映画を作ることは、いつも新鮮で、驚くことばかりです。

かたつむりのメモワール
監督・脚本:アダム・エリオット(『メアリー&マックス』『ハーヴィー・クランペット』)
声の出演:サラ・スヌーク(『スティーブ・ジョブス』『プリデスティネーション』)、ジャッキー・ウィーバー(『世界にひとつのプレイブック』)、コディ・スミット=マクフィー(『パワー・オブ・ザ・ドッグ』)、ドミニク・ピノン(『アメリ』、エリック・バナ『ハルク』)、ニック・ケイヴ
2024年/オーストラリア/英語/94分/カラー/5.1ch/G/原題:Memoir of a Snail/日本語字幕:額賀深雪/配給:トランスフォーマー
公式X:@katatsumuri_627
公式サイト:https://transformer.co.jp/m/katatsumuri/
6月27日(金)よりTOHOシネマズシャンテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネマート新宿ほか全国ロードショー