イベント「いかにして語り継がれるアニメーション作家になるか?」レポート(前編)

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登壇
クリス・ロビンソン
執筆・編集
ホワイト健

2025年10月10日、NeW NeWコミュニティ・スクールの第3回イベント「短編アニメーション作家と”成功”」が開催されました。この記事では、オタワ国際アニメーション映画祭アーティスティック・ディレクターでNeW NeWアドバイザーのクリス・ロビンソン氏による講義をレポートします。記事は前後編に分かれており、前編となる今回は、映画祭の選考過程について、その独自の方法論が語られています。

オタワ国際アニメーション映画祭と私

私がアニメーション業界に初めて触れたのは1991年のことでした。当時の私はアニメーションに特に関心があったわけではない、映画学を学ぶ学生だったのですが、ある日、クラスメイトから映画館でチケットのもぎりをするバイトを紹介されました。その映画館がカナディアン・フィルム・インスティチュート(CFI)というところで、主にアート系の映画を上映する、当時としては国内でも最大級のアーカイブを誇る組織でした。教育用の作品を学校に配給することを主目的としていたそうなのですが、1976年からは隔年でアニメーション専門の映画祭も開催していました。それがオタワ国際アニメーション映画祭です。

その後、夏休みのバイトとして映画祭のスタッフ募集に応募してみるとあっさり採用され、応募作品として郵便で送られてくる)16mmや35mmフィルム、VHS、3/4インチテープなどを整理してファイリングする仕事を与えられました。その後、選考委員のお世話を担当することになり、私もコンペティションの一次選考の場に同席することになりました。当時は700作品くらいの応募があったと記憶していますが、アニメーションの知識といえばディズニーやバッグス・バニーくらいのものであった私が、突然700作品を選考委員と一緒に観る、なんて仕事を任されてしまったわけです。

じっと座って大量の短編作品を観ていると、ここには私の全く知らない世界があるのだと分かりました。ここで観た5分くらいの個人制作アニメーションの数々は、例えばベルイマンのような実写のアート映画と同じくらいに輝いて見えました。どうして個人でこんなことができるんだろうとすっかり魅了され、だんだん短編アニメーションという世界に興味が湧いてきたのを覚えています。

そんなあるとき、選考委員長が突然「君は全ての作品を観ているんだから、今回は君が上映順を決めてみないか?」と提案してくれました。素人ながらいざやってみると、その作業にはティーンエイジャーの頃にミックステープを作って友達に聴かせていたときのような楽しさがありました。そうした仕事を続けるうち、1996年には映画祭の選考委員として雇われるようになりました。ただ、選考に関わるうち、私にはどうもそのプロセスが不満に感じられました。選考委員がお互いの意見に配慮しすぎるせいで妥協が繰り返され、誰かが本当に推していた作品が選ばれずに終わったりと、選考過程から情熱を感じることができなかったんです。

やがて、上司にこの映画祭を毎年開催にしたいと言われました。しかし、毎年あの規模の映画祭をやるのは大変すぎるし、予算もない。ならば代わりにということで、今度は選考委員会形式ではなく、私一人が選考を担当することにしました。それがちょうど2000年頃のことです。1990年代後半にはアニメーション業界も大きな変化を迎え始めており、市場は拡大し、学校も増えてきていました。アヌシー国際アニメーション映画祭が毎年開催になったのもこの頃ですね。ちなみに、このアイデアはオランダアニメーション映画祭を立ち上げたゲルベン・シェルメルによるものです。彼と話していて、映画祭は美術館やギャラリーのようにそれぞれが個性を持っているべきではないか、という結論に至ったのです。

私のバックグランドはビジュアルアートやアニメーションではなく、実写の映画や映像、音楽などだったため、アニメーション映画祭の様子を見ていると違和感を覚えることも多くありました。これは今も同様だと思いますが、残念ながら選考委員にによっては「作品が何を伝えようとしているか」よりも「どのようなテクニックが使われているか」で作品を選んだり、作家のネームバリューだけで選んだりすることも少なくないからです。

オタワの強みは「さまざまなカテゴリーの映画を同じ枠で扱っている」という部分です。同じコンペの中に、ストーリー重視の映画もあれば学生制作の実験映画もあり、ミュージック・ビデオも同じ枠で上映されています。他の映画祭、例えばアヌシーの場合はこっちに学生部門、あっちに商業部門と、作品がそれぞれ異なる上映プログラムに分けられたりしていますよね。そうしたやり方に対し、私はオタワの唯一無二ともいえるスタイルが大好きなのですが、その形式で続けている間に、実際にオタワ国際アニメーション映画祭は北米で最大のアニメーション映画祭にまで成長しました。すると当然、アメリカからもたくさん人が来るし、商業作品も増えてくる。さらには観客もそこに混ざり、業界中の人が集まりつつ、関係者の枠を超えて意見交換が成される環境ができました。

さて、よくある質問として、どのようなプロセスでプログラムを組んでいるのか、ということを聞かれます。選考委員会方式の場合は例えば5人いた場合、3人の票が集まれば選出、というふうになりますよね。私はそうやって多数決で決まってしまうのが馬鹿馬鹿しいように感じられました。ですので、私の場合はとてもシンプルに「その映画をもう一度観たい」と感じられるかどうか、という点を判断基準にしています。さらに言えば、「これが映画館で流れているところを想像できるかということも。

私自身はもちろん年月を経るうちに成長して変化していますが、この選考プロセスについては全く変わっていないと思います。とはいえ、もちろん全ての作品を最初から最後まで観る訳ではありません。これだけ観ていると、これは厳しいな、これはこの映画祭に向いてないな、というものが自然と分かってきますから、まずは私がそうした作品を除外していきます。次の段階では5日間、映画祭のスタッフ2、3名と一緒にもう一度残った作品を観ていきます。この段階では彼らとは何も話さず、それぞれの考えを固めたのちに議論を交わします。三つ目の段階ではほとんど最終選考に近い形にするため、週末の間に一人で部屋に篭って最後の判断を下していきます。このような選考の過程で、5つある上映プログラムをどのように組むかということも考えます。

1992年に映画祭に関わるようになってから今まで、私はこの上映順を決めるのがいちばん好きなプロセスです。当初はいくつかルールがあり、例えば同じ国の作品は連続させないように、同じ作風の作品は並べないように、といったことを意識しつつ選んでいたのですが、これも経験を積むうちに自分なりのアプローチが見えてきて、ある種のリズムを感じながら組めるようになりました。まさに一枚のレコードを作るような感覚ですね。

まずオープニングでは観客を歓迎し、「始まったぞ」という興奮を与えてくれる作品を置く。作品に耳を傾けて、オープニングの最後の音はこんな感じだから、じゃあ次の作品をこれにしたら流れが繋がるな、というふうに。とにかく「聞く」という姿勢で選んでいく。そうしたリズムを考えつつ、ムードも考慮する。誰もが感動するような作品で涙を流させておいて、その直後に大爆笑してしまうような作品を繋げていく、とか。

以前のシステム通りであれば選考委員会が選んだ作品をもとにプログラムができ、そのなかで最優秀賞が決められます。しかし私のやり方の場合、まずプログラムがあって、そのあとで最後の判断が下されるのです。

これができているのは以前からのオタワの伝統も関係していると思います。オタワでは昔からストーリー性のある映画の次にコマーシャルが来たり、ミュージックビデオが流れたかと思えば実験映画が来たり、ということが普通だったので、枠を設けないやり方とそもそも相性が良かったのです。ですから、5つの上映プログラムで選ばれた作品というのは必ずしも「エントリー作品のなかの最優秀作品」を意味する訳ではなく、むしろそのプログラムに合った作品、ということになります。私としては「全応募作の中の最優秀作品」というものがあるという考え方自体が馬鹿げていると思うのです。

映画でも同様ですが、私はコンペがあるということ自体がおかしいと思います。映画を観るという体験はあくまでも主観的なものですから、映画祭のプログラムを組む立場としては観客のリズムとムードを第一に考えています。

これが私が考える理想的な選考プロセスですが、もちろん、これは私のやり方が他と比べて最善だということを言いたいわけではありません。ただ、オタワが選考委員形式だった頃は、ときどき落選した作家から抗議の手紙が届くことがあったのですが、現在の方法でプログラムを決めるようになって以降はそうした抗議も届かなくなりました。

カナダの映画業界にはとても歴史と権威のあるカナダ国立映画製作庁(NFB)という機関があるのですが、NFBとの関係でさまざまな問題はありました。実際にあるプロデューサーが来て、「実は我々のスタジオにはあなたに対する抗議文がファイリングできるくらい大量に溜まっているんだ」と告げられたこともあります。これはプログラミングや私の作家としての活動に対する抗議だったりするのですが、そのプロデューサーは「だけど、あなたはとても情熱をもってこういうことをしているのだから、きっと問題ないと思う」と言ってくれました。アニメーションに対する敬意があるのは分かっているから、そのまま続ければ良いと。あえてパンクにやっていたつもりではあるのですが、それを聞いて少しホッとした側面はあります。

ただ、現在もよく見受けられる傾向として、作品のビジュアル面が重視されすぎている部分はあると思います。珍しい技術を取り入れているからといって、そこに物語や観客に伝えたい何かがないと意味がない。ビジュアルや技法ばかりに気を取られてしまうのはもったいないと思います。

🔗 後編 著者としてアニメーションを語ること ↗︎