クリス・ロビンソン『Japanese Animation: Time Out of Mind』翻訳(1):イントロダクション

2026年3月13日
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著者
クリス・ロビンソン
翻訳
新井佑季
監訳
土居伸彰

NeWNeWジャーナルでは、2010年に出版されたクリス・ロビンソン著『Japanese Animation: Time Out of Mind』の邦訳を掲載します。

はじめに 

この本が生まれたのは、ある種の後ろめたさからだった。

2006年、私は国際交流基金の招へいプログラムに採択された。それは、2週間の日本滞在にかかる費用を全て負担してくれるもので、航空券に宿泊先、さらには付き添い役(いや、変な意味じゃないからね)と通訳まで用意してくれた。しかもその滞在中、何を見て何をするかは、基本的に自分の好きなように決めていいと言うのだ。

信じられるだろうか?

そんな手厚いもてなしに、どこか後ろめたい気持ちを覚えた私は、この旅を最大限に活かして、日本のアニメーションについての本を書くことにした。これまでに何冊か私の本を出している「ジョン・リビー」1 に話を持ちかけると、すぐに興味を示してくれた。

こうして2007年1月、ついに日本への旅が実現した。東京、広島、そして私のお気に入りの京都を訪ねた。旅の途中で多くの場所に立ち寄り、様々なアニメーション作家に会ってインタビューを重ねた。

しかし残念なことに、そのインタビューはあまりうまくいかなかった。私は疲れ切っていたし、体調も万全ではなかった。質問も平凡で、ありきたりなものばかりだった。きっとこうした類の本にお決まりのアプローチに、もううんざりしていたのだろう。そう、特定の作家に一章を割き、そのアーティストがどこで生まれ、どこで教育を受け、どのようにアニメーションの世界に入ったのかを伝え、そして彼らの作品を解説と分析を交えながら紹介してゆく…、というような。

これは退屈だ。

この本はそのようなありきたりなパターンには従わない。私はその構造を取り払い、アニメーション作家に関する「事実」の代わりに、アーティストと彼らの作品についての意識の流れのような印象を書き記すことで、核心に迫ることにした。

このスタイルにイライラしたり、ときに意味不明だと感じたりする人もいるだろうが、このアプローチの方が、従来の直線的な伝記スタイルよりも主題の本質をよりよく捉えることができると信じている。そもそも私たちがここで話したいのは彼らの芸術であって、出身地ではないのだ。

この本をどう読むかは、あなたの自由だ。フィクションのようなノンフィクションとして受け取っても、ノンフィクションのようなフィクションとして受け取ってもいい。そうした選択肢があることこそが、何よりも大切なのかもしれない。

それから、この本が日本のアニメーション作家について完全に網羅しているものだとは考えないでほしい。ここでの人選はあくまでも主観的なものであり、映画へのアクセスのしやすさに基づいていることもある。過去、現在、そして未来には、もっと多くの重要な日本のアニメーション作家がいる。取り上げられなかった方々には、この場を借りてお詫びしたい。

さあ、シートベルトを締めて、あとは流れに身を任せよう。

クリス・ロビンソン
オタワ、カナダより

日本のインディペンデント・アニメーション小史

私たちの目的(あるいはむしろ、私の目的)のために、日本のインディーズ・アニメーションの歴史を4つの時代に分けよう。パイオニア、長老、現代の巨匠、そして新たな世代だ。

アニメーションが初めて日本にやってきたのは、1907年頃のことだ。ジャスパー・シャープの記事「アニメの最初のフレーム(The First Frames of Anime)」2 によれば、1907年頃に作られたと推定される3秒間のセルロイドの断片3 が、日本の最初のアニメーション映画だと2005年の段階では考えられている。

最初の真のアニメーションは、下川凹天による『芋川椋三玄関番之巻』(1917)であるとされる4。同じ年に、他の2人の作家(幸内純一と北山清太郎)もアニメーションによる作品を発表している。

北山は間違いなくこの3人の中で最も重要だ。1921年に、彼は日本初のアニメーションスタジオである「北山映画製作所」を設立した。このスタジオは、短編アニメーション、商業映画、教育作品、実写映画のシークエンスなどを次々と制作した。

1920年代後半から1930年代初頭にかけて、その時代の最も重要なアニメーション作家3人、政岡憲三、大藤信郎、村田安司が現れる。彼ら3人とその他の作家は、漫画や日本の民話にインスピレーションを得て、アメリカからの作品にも匹敵するアニメーション作品を生み出した。1940年代まで、この3人は主に子供向けではあるが技術的には革新的な作品を次々と生み出した。

第二次世界大戦期は、日本のアニメーション(あるいは、日本全体)にとって低迷期だった。フィルムはますます入手困難になり、日本が敗北すると、映画の資金調達は停止した。

1950年代に、東映動画スタジオが設立された。制作の中心は、主に子どもをターゲットにしたテレビ向けのアニメーションに限られていたが、1960年代までには、大規模な制作体制が整えられるようになった。東映動画スタジオは、若い日本人アーティストに職場教育を提供することで、後のインディペンデント・アニメーション作家への道を開いた。

60年代には、日本のアニメーション制作が爆発的に増加した。商業アニメーションが大規模に制作されるようになる一方、手塚治虫、川本喜八郎、岡本忠成、久里洋二などのアニメーション作家がインディペンデントの短編映画を制作しはじめた。これらのインディペンデント作家たちは、自宅を拠点に制作するか、あるいは商業作品と芸術作品の両方を手掛ける小規模スタジオを立ち上げて、創作活動を続けた。

日本のインディペンデント・アニメーションは、1970年代に真に開花し、形になり始めた。日本アニメーション映画協会5 は、翌年の1971年に設立された。彼らの目的は、「日本のアニメーション文化を促進すること」だった。インディペンデント・アニメーションへの関心の高まりは、学生やアマチュアのアニメーターの増加と、イメージフォーラムの設立を促した。このイメージフォーラム6 は、一種の協同組合であり、主に前衛的で実験的なアニメーション映画に焦点を当てていた。

この時代には、国際的な注目を集める新しいアニメーション作家も登場した。古川タク、木下蓮三、田名網敬一、相原信洋といった作家たちである。

1985年に、木下蓮三と木下小夜子によって広島国際アニメーションフェスティバルが設立された。この映画祭は、日本のアニメーション作家等が作品を上映し、同時代の仲間と出会う場を提供しただけでなく、日本の観客に多くの国際的なアニメーション短編映画を紹介する場ともなった。

1990年代、日本のアニメーションは勢いを失った。アニメーション作家等によるテレビ(特にMTVやVibe)向けの革新的な商業アニメーションが国際的に成功した一方で、インディペンデント作品で注目に値するものは少ない。

この時代の2大インディペンデント作家は、黒坂圭太と山村浩二である。彼らの映画は国際的な映画祭で数々の賞を受賞し、その成功は新世代(訳註:2000年代)のインディペンデント作家の誕生を促した。

新世代の出現のもう一つの要因は、商業アニメーションとインディペンデント・アニメーションの両方の爆発的な増加である。アニメーション専門のTVチャンネルが現れ、アニメーション映画祭やアニメーションの学校も次々と設立された。最も重要なのは、テクノロジーが競争の場を均等にしたことである。若い作家たちは、技術の進歩によって、短編映画をより安く、より速く制作できるようになった。さらにインターネットによって、彼らの作品はより広範な観客に届けられるようになった。

他の国々と同様に、日本でもインディペンデント・アニメーションは苦戦を強いられている。アニメーションを、子どもや十代の若者向けの娯楽程度にしか見ない世界では、難解で個人的な映画への資金調達が、今後も常に課題となるだろう。しかし、それでもなお、和田淳、米正万也、加藤久仁生、大山慶といった新世代のアニメーション作家たちが、芸術的なアニメーションの言語を拡張する刺激的な作品を生み出し続けている。

影が落ちる

極寒の冬は、いつもより早くやってきた。クリスマスまであと一週間、気温は容赦なく冷たい。私は通りを歩いて、保育園に息子のハリーを迎えに行くところだった。彼がなかなか出てこないので、家に戻らず近所をぶらぶら歩きまわる。寒くてたまらない。冷たい風が私の安物のジャケットを突き抜ける。指が凍ってしまわないように、手のひらに丸め込む。耳が焼けるように痛い。とにかく歩き続ける。ある家の脇に立っている怪しげな男たちがふと目に入る。麻薬の売人の家だろうか。指が冷たすぎて、今にも折れてしまいそうだ。冬は大嫌いだ。ようやく息子の支度ができたので、一緒に帰路につく。

電話が鳴る。

「とにかく座って。」

体が凍りつくのを感じる。

「バリーが昨夜、心臓発作を起こして…。亡くなったの。」

沈黙。頭が真っ白になる。言葉は聞こえるが、まったく頭に入ってこない。何か言わなければ。でも、何を? 何が言える? 言葉がこぼれる。

「嘘だろ……」

さらに沈黙が続く。どうすればいい? もっと知りたい。でも、聞いてもいいだろうか?

「葬儀でスピーチをしてくれないかと思ってる。」

「えっと……もちろん。また知らせて。」

「こんなことが起こるなんて信じられない。私の夫はどこへ行ってしまったの? 」

何も言えない。何を言えばいいのかわからない。頭が真っ白になり、凍りつく。

「葬儀の日程が決まったら教えて。また連絡するね、いい?」

長い沈黙。すすり泣く声がする。

私は電話を切り、リビングルームのやけに大きな窓からぼんやりと外を見つめる。なんというか、目が覚めたばかりで、自分がどこにいるのか、何が何だかわからない。そんな瞬間にいるかのようだ。

私はこれからどうすればいい? どうするべきなんだ? 

もう彼が読むことはないと知りながら、バリーにメールを書く。彼がいなくて寂しいこと、そして愛していることを伝える。

———

バリーは私の親友だった。いや、もはや、兄弟といってもよかった。私たちは30年近くも前から知り合いだった。一緒に学校へ通い、一緒に働き、一緒にバンドを始めた。数年間離れていた後、私たちは再会した。今度は夫として、父親として、私たちの友情はかつてないほど強くなった。

心が沈んでゆく。

胃がきりきりと痛む。どうしようもなく、涙が込み上げてくる。言葉にならないほど辛い。目を閉じればいつも彼がいて、耳を澄ませば彼の声が聞こえてくる。頭から離れない。いや、離したくないのかもしれない。彼が戻ってくる気がしてしまう…でももう戻ってくることはない。そんなのあんまりだ。絶対におかしい。次は自分の番なのではないかと、死が頭をよぎる。この胸の痛みは……まさか……? もう、どうしようもない。なんのために生きているのかわからなくなってくる。なんのために書くのかもわからない。書いたって、どうせ何にもならないじゃないか。すまない…わかってる、ありがちな虚無主義だって。いや、やっぱりすまなくなんかない。勝手に思えばいいさ。

通夜、葬儀、クリスマス、新年……すべてがぼんやりと過ぎていった。

そして今、私は日本へ向かおうとしている。自分に耐えられるかは分からないが、ここから離れて、気持ちを整理するのは良い考えかもしれない。私は、家族や友人、他人に当たり散らしては、周りのみんなを振り回している。部屋にこもっては、涙を流し、物を壊し、眠ってばかりの日々。私はこの旅をすでに一度延期してしまった。もう二度と先延ばしにはできない。キャンセルできないかと思ったが、それは馬鹿げている。この旅は一生に一度のチャンスなのだ。ファーストクラスの航空券に、ホテル、通訳、案内役。二週間、好きなことを何でもできる。

行けない。

いや、行く。







1 John Libbey Publishingはアメリカの出版社。アニメーションに関する書籍を精力的に出版している。(現在は活動を停止)クリス・ロビンソン氏の著書としては、 Estonian Animation: Between Genius and Utter Illiteracy(2006)、Animators Unearthed: A Guide to the Best of Contemporary Animation(2010)などがある。

2 Sharp, Jasper (2009). “The First Frames of Anime.” The Roots of Japanese Anime, official booklet, DVD. Zakka Films.

3  1907〜1912年に制作されたと考えられている『活動写真』あるいは『松本フラグメント』のこと。(作者と本来のタイトルは不詳)16フレーム/秒で投影された約3秒間のループ映画。

4  2025年現在、日本で最も早くに公開されたアニメーション映画は、下川凹天による『凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻』(1917年1月公開)であると考えられており、『芋川椋三玄関番の巻』は1917年4月に公開されたとされる。現在フィルムが現存する日本最古のアニメーション作品は、幸内純一の『塙凹内名刀之巻』(1917年6月公開)である。

5  日本アニメーション映画協会(JAFA)は、日本アニメーション協会(JAA)の前身組織である。久里洋二、月岡貞夫、岡本忠成、川本喜八郎らの呼びかけにより、アニメーション作家、映画関係者を中心に発足された。1978年に、アニメーションの多様化を予測し、フィルム表現に拘らない意味合いから組織の名称を日本アニメーション協会に改名。初代会長には手塚治虫が就任した。

6  映像作家のかわなかのぶひろが1977年に設立した団体「アンダーグラウンド・センター」が前身の組織。1987年から、国内外の芸術的な作品を集めた映画祭「イメージフォーラム・フェスティバル」を開催している。

🔗クリス・ロビンソン『Japanese Animation: Time Out of Mind』翻訳(2):東京、現在 ↗︎


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