オスマン・セルフォンとの対話
- 聞き手
- 金子勲矩
関口和希
ひらのりょう
- 構成
- ホワイト健
第一期公募枠作家3名がツアーの一環で訪れたザグレブ国際アニメーション映画祭にて、『タバコ、吸ってくる』(2018)や『ア゛ァァァ!』(2022)などの作品で知られるフランスの短編アニメーション作家のオスマン・セルフォン監督にインタビューを行いました。

質問:もともとなぜアニメーション制作の道に進もうと決意したのでしょうか?
オスマン:実はちょっとした手違いが原因なんです(笑)。もともと私は物語を書いて、それを絵で表現する仕事がしたいと考えていました。ですが、フランスには(芸術性よりも)ナラティブ性に重きを置く学校があまりありませんでした。当時は主に物語性に特化したイラストレーション部門のあるストラスブール装飾芸術学校と、同じ方向性のアニメーション部門をもつラ・プードリエールという二つの学校が候補としてありました。両方を受験したのですが、幸か不幸かラ・プードリエールに先に受かってしまい、その入学の返事の期限がストラスブール装飾芸術学校の面接の日だったのです。当時既にガールフレンドがラ・プードリエールで働いていたので、この学校で何を学べるのか、どのように「物語」が教えられているのか、といったことはなんとなく分かっていました。それにずっとインスピレーションを受けていたので、最終的には「アニメーションを勉強した後でイラストレーションには戻れるだろうけど、アニメーションはイラストレーションよりも技術的な要素が多いからきっとその逆は難しいだろう」と判断してラ・プードリエールを選びました。もちろん両者に優劣をつける訳ではありませんが、2005年当時はアニメーションをオンラインで学ぶための教材も少なかったので、独学で学ぶとすればアニメーションの方が難しかったと思います。今はさほど変わらないかもしれませんが。
ラ・プードリエールに入るための面接は45分で、本当に長い時間質問され続けました。毎年9名しか生徒を取っていなかったので、とても慎重だったのでしょう。学校にはフルタイムの教師はおらず、指導員はプロのアニメーション作家たちが週に一度だけ教えに来るような感じでした。成績もなく、制作演習が終われば学校も終わり、という形でした。完成させる必要もなく、とにかく自分がやったことを見せれば良いという訳です。だから、失敗してもどうにもならない。とにかく締切までに終わらせればよく、手直しする必要はありませんでした。演習をひたすら繰り返す形式だったので、例えば卒業証書をもらうために通うような場所ではありませんでしたね。
また、初年度、作品制作のためにわずかですが予算をもらえます。その上で音響や編集のような仕事を自分で済ませようとすると駄目だと言われるのです。つまり、他のスタッフと関わる方法を教えたかった訳ですね。自分よりもレベルの高いスタッフと一緒に仕事をするので、例えば朝8時に約束をしながら当日「あと2時間待って!」と言ったりすることもできません。コミュニケーションというか、敬意を学ぶ必要があるわけです。
ですから、予算が多いとか少ないとか、快適な制作環境をどう作るかとかいうことではなく、限られたお金をどう選ぶかをひたすら考えさせられました。アニメーターや作曲家に依頼を出す余裕のあるケースもありましたが、大抵は仕上げ(塗り)に予算を使っていましたね。アニメーターを雇うよりも安かったので(笑)。
卒業制作はもう少し予算があって、確か4,000ユーロほど渡されました。半分は音響と編集に割かなければならなかったのですが、それでも残りでいろいろと実験してみる良い機会でした。

質問:学費はどれくらいでしたか?
母が支援してくれていたのですが、確か年間800ユーロほどですね。それが4年間。他の美大には当時でも5,000ユーロ、現在なら10,000ユーロくらいの場所もありますが、私のところはその程度でした。しかも制作予算として公的資金からその4倍くらいの予算を渡されたので、良いプログラムでしたね。
質問:日本ではそうした支援制度やグループワークを提供する学校も少なく、作家志望の学生は基本的に独学でアニメーションを学ばざるを得ないため、とても素敵なプログラムだと思います。具体的にはどのような勉強をされたのでしょうか?
オスマン:実写で映像を撮る練習などもしましたね。三日間で映像を撮り溜め、まずは編集せずそのまま繋げた状態でストーリーを表現し、それから編集作業を挟んで同じ物語を語り直す、という課題があったのを覚えています。
また、ビデオコンテの演習もたくさんありました。ライブドローイングやプロの監督によるワークショップに加え、週に1時間は英語の授業なんかもありました。
ワークショップの講師は毎年変わり、昨年はミカエラ・パヴラートヴァだったはずです。私の在学中にはイゴール・コヴァリョフが来ました。卒業制作のためにはメンターを選ぶ必要があり、フィル・ムロイに依頼したんですが、「なんでこんなものを作ったんだ、ゴミじゃないか」と言われたりしました(笑)。もう作っちゃったんだからゴミじゃないフリをしてくださいよ、って。
質問:ダークコメディ作家として、自分の中で越えないようにしている道徳的、倫理的な線はありますか?
オスマン:難しい質問ですね。言葉にできるようなはっきりとした線引きをしている訳ではありません。『Sticky Ends』という作品があるのですが、あの中で登場人物が石を投げる際、石がぶつかる様子は描かれませんでしたよね。そうした方が観客が自ら想像せざるを得ない分、犯罪に加担しているかのように感じてさらに衝撃が強くなると思っています。
よって「場合による」という答えになりますが、観客の倫理観に挑みかけるような表現は積極的に取り入れています。
例えば、私の映画では、当初非常に限られた予算しかありませんでした。とりわけ、音響や音楽に割ける予算はたった2,000ユーロしかありませんでした。音響監督の方と話していて「甘い音楽を乗せて皮肉な感じにしたり、ひどい音楽を合わせてごちゃついた感じを出したりするのはどうだろう」などと提案をしてもらったのですが、きちんと映像に合う音楽が返ってくるか分からず、なかなか予算を割く勇気が出ませんでした。そのとき、ふと思いついて「いっそ音楽をつけないのは?」と言ったんです。音楽がないと、観客は正解を与えられることなく、「今のって笑うべきシーンだったのかな……?」と自分で作品の受け止め方に対する答えを出さなくてはなりません。そうした点で、観客が不快に感じうる表現には積極的に挑んでいます。
それから、リアルなセックスシーンを含めないようにしています。例えばペニスがヴァギナに挿入される様子をクローズアップで見せるような描き方は私の好みではありません。物語上の必要に駆られることがあれば描くこともあるかもしれませんが。でも、そうしたシーンがある映画を自分の親に見せられますか?(笑) そうした表現が気にならない人も多いでしょうが、私にとっては常に頭の片隅にある要素ですね。
とはいえ、インモラルな表現は好きですよ。物語を語るときにモラリストぶるのは嫌いです。「これは悲しいことだ、お前はこれを悲しいと感じるべきだ」とか、「これは受け入れられないことだ」とか人生訓めいたことを伝えようとしている映画は特に。私が思うに、観客は自分で判断を下すべきです。「これはこういうことなんじゃないか」と自分で推論を下した上で何かを読み取ったのであれば、それは受け手自身の意見ということになります。そうすることで、自分が伝えたいこともより本質的に理解してもらえるのではないでしょうか。
そういう意味でも、物語は結局のところ、観客をいかに操作するかだと思います。観客が知っていること、知らないこと、そのあいだの操作で物語を描き出す。観客は主人公よりも登場人物について知っているのか? 主人公は途方に暮れているのか、それとも神のような全能感に浸っているのか? そうした語りはわざわざ露骨な描写を入れなくたって実現できるわけです。
質問:家族など他の人にアドバイスを仰ぐことはありますか?
オスマン:母とは少し離れているのであまり観せることはありませんが、やるべきことを全部やり終えたと感じた時点で一度人に観せるようにはしています。自分以外の、遠慮なく意見をしてくれる人に観てもらうことで、新鮮な意見をもらうことはあります。ただ、「理解できた?」というようなことは聞きません。なお、最終確認のために観てもらうことはありますが、基本的に途中経過でないと修正が効きませんから、制作の段階ごとに観せる場合もあります。
私が人の作品にフィードバックを送るときも同様です。その時点で制作がどのステージにあるかを考えた上で、まだ修正が可能そうな要素にコメントするようにしています。例えば編集段階にある作品を観て、脚本の要素などにコメントしても意味がありませんよね。とはいえ、正直にコメントするようにはしています。例えばアメリカ人は「悪くない」と伝えるために「素晴らしいね!」と大袈裟にコメントしたりしますが、私はその反対で、「どうかな……」と言うことが多いです(笑)。
また、制作を共にしているアニメーターの仕事に引っかかる部分があるときでも、自分が何でも理解しているかのように振る舞わないように心がけています。彼らが自分のために何をしてくれるのか、自分が彼らのために何ができるのかを考え続け、言葉にして議論する、ということこそが集団制作の強みですから。もちろん、言われたことを必ずしも取り入れる訳ではありませんが、自分の引っかかりや躊躇いを言葉にするのはチームに対して敬意をもっていることの証左でもありますから。自分が扱われたいように他人を扱うのは良い職場、ひいては良い作品を作る第一歩だと思います。
質問:『ア゛ァァァ!』(2022)では登場人物の歯が非常に小さな点で描かれていますが、どうしてこのようなデザインにしたのでしょうか?
オスマン:美大にいたときに白のペンをよく使っていたのですが、それがかなり気に入っていたので『ア゛ァァァ!』でも活かすことにしました。口の中は黒色に塗っていましたし、すぐに描けるので。あの作品は三人で仕上げを進めていたのですが、歯を塗る権利があるのは私だけでした(笑)。満足感のある作業でしたから、仕事を切り上げる前に歯の点々を黙々と塗る作業はその日の仕事に対するご褒美みたいでした。
歯以外の表現については個人的な美術的判断に基づいています。ですが、同じことを先にしていた日本のアニメーション作家は何人か見たことがあります。大川原亮や奥田昌輝、山村浩二なども似た表現をしていたはずです。例えば子供たちが爆発してしまいそうな雰囲気を表現するために25fpsの振動を加えたり、12fpsで柔らかな、クラシカルな雰囲気を表現したりといったような部分ですね。
質問:今日の講演で「ストーリーテリングはパズルのようだ」と仰っていましたが、これについて詳しく説明していただけますか?
オスマン:パズルに限らず、例えばガレージでエンジンを修理しているときや、スポーツカーを組み立てているときなどにも例えられると思います。何かがうまくいかないように感じられ、全体の一部分を他のものに変えてみたとします。こうすることでその一部がより綺麗にフィットする可能性はありますが、同時にバランスを取るためには他の部分にも手を加えなければなりません。
ビデオゲームで考えてみましょう。もし格闘ゲームに一人だけ異常に強力なキャラクターがいたとしたら、みんなそのキャラクターばかりを使うようになってゲームが成立しなくなりますよね。それと同じで、特にシリーズ物では登場人物の間でもバランスを取る必要があります。極端に主人公にフォーカスしてしまうと、確かに主人公には感情移入できるようになるかもしれませんが、代わりに他の登場人物に個性を感じられなくなってしまう恐れがあります。いかに登場人物たちを人間っぽい存在だと感じてもらえるようにするかを工夫するのに、必ずしも物語自体に手を加える必要はありません。
それから、脚本を書くときと例えば家なんかを建てるときとで変わらないルールがあると思います。全体のたった二割くらいの作業時間で物語の80%ができることがあっても、残りの20%を納得できる質まで高める調整のために費やさざるを得ないことが非常に多い。既に全体の構造は完成しているのに、詳細を詰めるために何日もかけないといけない。骨組みが完成したから今度は壁、今度はペンキ、今度は窓、というふうに、細かい部分を完成させるためには膨大な時間がかかります。ストーリーテリングでも同様で、物語を完全にするためには細かい変更をたくさん加えなくてはならず、変更を加えたら今度は物語がそれに沿うようにストーリー自体を修正しなくてはならない。
質問:そうした修正はチーム全体で行っているのでしょうか?
オスマン:物語に関しては一人で直しています。映像の面でリテイクを出すことはありますが。
美術面の設定資料や個々の会話シーンの脚本作成は比較的簡単ですが、シーンごとの脚本を用意する段階になるとかなり複雑になってきます。あるとき、その段階でプロデューサーと打ち合わせをしていたのですが、彼が非常に良いことを言いました。曰く、「どうせ脚本の具体的な直しはビデオコンテの段階でもできるんだから、シーンは短く分割しておいたら?」と。
現在、妻と脚本を共筆しながらテレビ放送用の80分の作品を制作しています。同じドキュメントで作業しているのですが、いつも違う場所にいるのに相手がどんどん文章を加えていく様子が見えて面白いです。何も書き込みがなかったら「今はサボってるんだな」と察せたりして(笑)。コメントやメッセージで「そんな口調で喋る人なんていないだろう」「どこからそんなこと思いついたんだ?」とか口論しながら執筆と改稿を進めているのですが、なかなか良いものができつつあります。
質問:普段、完成までに改稿はどれくらい重ねていますか?
オスマン:はっきりと答えるのは難しいですね。例えば『タバコ、吸ってくる』(2018)では何年も前からアイデアは頭の中にあったのですが、その時点では映画に活かせるアイデアかどうかすら分かっていませんでした。ですが、『ア゛ァァァ!』では二日間の昼間の時間だけで企画書が完成しました。普段、どうしても仕方ないときを除いて、脚本作業をしているときは一日に二、三時間以上は机に向かいません。やる気が続かないので(笑)。どうしても時間がなくて選択肢がないときは別ですが、個人的にはあまり時間をかけず集中して書き進める方が効率が良いと感じます。そのあとはスポーツなり何なり、何かしら気分転換になるようなことをしますね。その間も頭の中ではときどき思索が続いていて、机に向かう気分でなくとも、好きなことをしながら脳内ではひっそりと脚本作業が進んでいたりしますから。こうすればただひたすら6時間椅子に座って画面を眺めるより、3時間でより多くの進捗が生み出せると思います。
とはいえ、これは私の信条でもありますが、人にはみなそれぞれ独自のアプローチがあると思います。私の場合は二ヶ月ほどの間脚本に取り組んでいましたが、その中ではせいぜい一日に2、3時間程度しか作業に取り組んではいませんでした。具体的にはおそらく脚本執筆に二ヶ月、改稿にもう二ヶ月かけたと記憶しています。合計すればクリスマスの休暇を挟んで四ヶ月ほどですが、フルタイムでは作業していた訳ではありません。
改稿の回数ということであればおそらく13回くらいかと思います。もちろんその中にはごく一部しか変えていないときも含まれるので、一概には言えませんが。アニマティクスも17~20回くらいでした。個人的にかなり厳しく改稿作業に向き合っていると思います。この段階が終わらない限りは絶対に次に移らないぞ、と決めて作業していたりするので。中途半端なまま進めてしまうとあとあとストレスになりますからね。解決しないうちは問題が雪だるま式にどんどん大きく複雑になっていく一方です。それに、アニメーションの段階で満足ができていなかったら撮影の段階で満足するのも難しくなります。脚本についても同様です。
テレビ放送向けの新作はひとつの大きな単一バージョンの下書きから出発したのですが、40回ほど修正を重ねる必要があったので、合計で一年半くらいはかかっています。これはわれわれの都合ではなく、テレビ局やその前に共有するプロデューサーからの希望が大きく影響しています。プロデューサーはこれがテレビ放送される短編だということをよく理解しているので、かなり強く検閲を挟みます。政治的な要素にも変更が加わることもあります。「もともとは家族向けの予定だったけど、今度は子供向けでお願い」と来ることもありました。「だからこのキャラクターはいない方が良いね」と言われて、当初は嫌だなと思っても、あとあとその方が良いかもと思えるようになったりと自分の意見も変わっていきますから、修正にはとにかく時間がかかります。合計すれば、今回は80分の作品に2年間かかっていますね。当然、これも2年間つきっきりで作業している訳ではありませんが。三週間作業して三ヶ月寝かせておいて、その間に鬱になったから元の脚本が気に入らなくなって書き直して、また他の仕事に移る間にそれをプロデューサーに送ったらするりと通ったり(笑)。
質問:ビデオコンテはご自分で制作されたのですか?
80分の新作については基本的に妻との二人だけですね。予算次第ではごく一部のシーケンスを作ってもらうために人を雇うこともありますが。とはいえ、なるべくコンテのような重要な部分は可能な限り自分でやった方が良いと思います。
あるときディズニーのドラマ制作に関わる機会があり、そのとき人を雇って絵コンテを作ってもらいました。返ってきたものはどうにも自分らしくないものでしたが、依頼した以上はそれをもとに細かい部分を詰めていくしかありません。そういうものに自分らしさや個人的な思い入れを感じるのは難しい。ですから、絵コンテなどの初期作業はやはりなるべく作家自身が担当した方が良いと思います。
そんなことを言っておきながらこう言うのも変かもしれませんが、個人的に絵コンテは嫌いです。絵を描くときはオーディオブックを聴きながら作業しているのですが、コンテはそれもできないので苦痛です。私は専門のコンテ書きではないので、想定するよりも毎回時間がかかりすぎてしまうというのもあります。取りかかったばかりの頃はいったいどう書くべきなんだと詰まってしまいますが、とはいえ60、70%ほど書き終える頃には楽しくなってきて十分に書きたいことを書ききることができるようになります。絵コンテに限りませんが、アニマティックはおそらく監督として非常に大事な段階だと思いますね。
私の場合はまず事前に紙にスケッチをして、このショットは使えるぞ、このアングルは良いな、とか考えながら、目標なく前へ前へ突っ込んでみます。個人的に細かく描くのが好きなので、あとあとこのポージングが欲しいなと思ったときにスケッチがほとんどそのまま流用できたりすることもあります。
その次に編集段階に入り、細かいタイミングなどを調整しつつ読み直して、このポーズは変えたいな、ここは分かりづらいかな、というふうに手直ししていきます。また、音楽も早い段階で構想しています。
ときどき、絵を描く前に会話が思い浮かんでいるときもあって、そういうときはタイミングがかなり考えやすいですね。会話は2分間だから、じゃあこのセリフは20秒あれば良いな、といったふうに。大抵は単一ショットで、そんなに長くはならないことが分かっていますから、どんな構図や動きが必要なのかも考えやすいです。画面上では犬が通り過ぎているのだけど、音声ではまだ会話が聞こえてる、とか。
ですが、今述べたことが必ずしも正しいことだという訳ではありません。視覚的なイメージが先行する人がいれば、脚本に時間をかけてしまうとそのイメージを見失ってしまうかもしれません。発想が視覚的なために、文章にする過程で新鮮さが損なわれることもあるでしょう。
私の場合、アニマティクスで後悔が残ることはまずありません。取り組めば取り組むほどイメージ通りのコンテが出来上がります。しかし、人によってはそこから先は退屈に感じられることもあります。高速道路のように、目的地があってそこに至るまではひたすら一本道を走り続けるしかありませんから。夜にいろいろ思い悩むことなく眠りに就けるのは長所だと思いますけどね(笑)。
なお、失敗から学ぶことも大事だと思いますよ。学校にいた頃は基本的に自分一人での作業だったので、必然的に自分の強み弱みを知ることになりました。そのおかげで、弱みもある種の状況では強みに転じさせられるのだと学びました。
また、自分でアニマティクスを担当すれば自分の直感なども織り込むことができると思います。私はかなり特殊な制作の仕方をしているのですが、学校でもよく先生たちに「君は良いアイデアをもっているが形にするのが下手だね」と言われていました。「じゃあアイデアの中身とそれを表現する形とではどちらが大事なんですか?」と聞くと、「君は結局のところグラフィックデザイナーなんだからそりゃあ形が描き出せないんだったらどれだけ良いアイデアがあっても活かせないだろう」と言われました。そこでかなり苦しみましたね。その過程で同時に差別化のために独自性を演出する必要もありましたから。人によっては頭の中でパパッとできてしまうこともあるでしょうけどね。
ですから、これが正しいとかこれをすべきだとかいったことは何も言えませんが、私がおすすめしたいのはこんなプロセスです。でも、あなたのことを最もよく理解しているのはあなた自身なので、とりあえずやってみて適宜好みを見つけていってください。
それに、作品にもよりますよね。『ア゛ァァァ!』はかなりシンプルでした。わかりやすいカタルシスがあったので、難しく考えすぎる必要もありませんでした。

質問:コメディは非常に難しいジャンルだと思いますが、ユーモラスな表現をするためのコツなどはありますか?
オスマン:コメディは私にとってごく当たり前に思いつくものなので、改めて考えると難しいのですが……たぶん、タイミングが非常に重要だと思います。それから、先ほども言ったようにどういった情報を観客に与え、どういった情報を伏せておくかの選別も大事でしょう。観客の期待を裏切ることができれば驚きを与えることができますが、それはきっとコメディをつくる上で中心的になる要素だと思います。コメディを教わったことはないので、全て私の感想ですが……。
質問:反応を窺うためにジョークを他人に見せることはありますか?
オスマン:はい。映画館で頑なに笑わない日本人は別ですけどね!(笑) 広島国際アニメーションフェスティバルが初めて国際映画祭に参加した機会だったのですが、あるデンマーク人が「とっても面白かったよ! でも、観客が誰も笑わなかったから映画館では笑いをこらえなくちゃいけなかった……」と言ってきたのを覚えています。
そういうふうに、笑わなかったからといって面白くないということはありませんし、逆も然りです。反応を予測するのは難しいんですよね。それに、ある地域でウケたからといって別の地域で同じジョークがウケるとも限りません。例えばドイツに行けば非常に俗っぽい、例えば鳥がオナラをするシーンなんかで笑いが取れたりしますが、日本ではまずありえません。こうした文化的な要因も大きいので、結局のところは自分が好きなものを作れば良いのではないかと思います。運が良ければ同調してくれる観客に恵まれるかもしれませんし。
また、笑いは映画のリズムにも関わってきます。ここでウケが取れそうだなと思ったらその直後には少し間を挟む必要がありますし、重要なセリフが笑いで隠れてしまう危険なんかもあります。複雑な、あるいは間接的なジョークであればその分観客が理解できるように一拍置いておく必要が出てきたりします。その理解の速さも観客がみな一様だという訳でもありませんしね。ですから、最終的には自分のリズム感と直感に任せるしかないと思います。
よって、究極のアドバイスを誰かに与えるとすれば「常に観客が把握している情報、認識している情報を理解して、それを操ること」になると思います。自分を投影するのではなくて、彼らの判断を推測する形です。ウケについても、まずは自分にとって面白いジョークを考えて、同じユーモアセンスを他人に期待できるか友人や兄弟で確かめてみると良いでしょう。私はよく「独特なユーモアセンスをもってるね」と言われるので、そういう確認は必要でしょうね(笑)。