第三期公募枠アーティスト・土屋萌児インタビュー
- 取材
- 田中大裕
- 構成
- 塚田優

アニメーションに興味を持たれたきっかけは?
土屋 子供の頃からNHKの教育番組「みんなのうた」で流れるようなストップモーションアニメーションに惹かれていました。他には『ピングー』(1990–2006)、『ロボットパルタ』(1994–)、『ニャッキ!』(1995–)などを見て面白いと思っていました。それと同時に、『ターミネーター』(1984)、『トータル・リコール』(1990)といったSF映画のVFXやストップモーションにも興味を持っていました。また中学生の時に観た『スノーマン』(1982)も、色鉛筆の作画や空を飛ぶシーンが素晴らしいと思いました。これらが最初のきっかけでした。
カットアウトによるアニメーションが土屋さんの持ち味かと思われますが、どようにして現在のスタイルを確立されましたか。
土屋 アニメーションを作り始めた当時は、CGが全盛でした。ただ当時PCを持っていなかったので、そんな自分でもビデオカメラなどを駆使すれば作れるDIYなやり方を深めた先に何ができるのかを、ある種カウンター的に追求したいと思ったんです。立体を紙にプリントしてコラージュしたり、コピーを繰り返して劣化させたり、プリンターをサンプラーのように使ったりと、身の回りにあるものを使って試行錯誤することに興味があります。
現在はPCも活用しています。広告の仕事でカラーグレーディングの重要性を感じたので、最近はDaVinci Resolveの勉強も始めました。
以前の作品では音楽もご自身で手がけられています。それもDIY志向の現れだったのでしょうか。
土屋 明確な哲学があったわけではありません。ただ音楽が好きで宅録をしたり、友達と一緒にノイズバンドを組んでいた時期がありました。そこからアニメーション制作に入ったので、初期は音楽も自分で作っていました。自分にとっては、それが自然な流れだったんです。ただやはり自分だけだとできることに限界があるので、今は自分以外の人が作った音楽と融合する方向に舵を切っています。
阿佐ヶ谷美術専門学校に通われていたそうですね。そこでアニメーション制作について学ばれたのでしょうか。
土屋 映像の授業でノーマン・マクラレンなどの実験映像について教えてもらいました。結果的に中退してしまうのですが、友人からヤン・シュヴァンクマイエルやスーザン・ピットを教えてもらったり、チェコのアニメーションをミニシアターに観に行ったりと、在学期間を通して様々な実験的な映像の存在を知ることが出来ました。そして絵を動かしてみたいという衝動から、独学でアニメーションを作り始めました。
2012年から2018年までの6年間はベルリンを拠点に活動をされていたそうですね。現地での経験についてお聞かせください。
土屋 アートスペースをやっている方に通訳やコーディネートに入ってもらって、小学生にアニメーションを教えていました。小学3年生くらいのドイツの子供たちに鳥小屋を渡して、小屋の出入り口から覗くミュートスコープのような装置を3、4日かけて作るワークショップを行っていました。
また、イスラム系難民が滞在する施設にもワークショップしに行ったことがあります。国旗をシンボル的に扱った作品や、自分の家が空爆される様子を描いた作品が印象に残っています。講師と受講生の関係を越え、逆に自分がとても大切なものを教えてもらった気がします。アニメーションは、その人の個人的なストーリーや、記憶を引き出すことができるんです。教えるというとアカデミックなイメージがあるかもしれませんが、ベルリンでの経験は教える/られるという二項対立では捉え切れない教育の可能性を肌で感じる機会になりました。
ベルリンのアニメーションやアートを取り巻く状況についてはいかがでしたか。
土屋 アニメーションをアートの手法として用いている作家が多かった印象です。例えばブルはストリートに作品を描きながら、それをアニメーションとして撮影していましたし、田口行弘は現地にある素材でインスタレーションを制作し、その空間が変化していくプロセスや、そこでの人々の営みをストップモーションアニメーションで記録していました。
ベルリンはアートに寛容です。観客の感度も良く、アーティストも多い。ただ2010年代には、物価や家賃の高騰がアートシーンにも影響を及ぼしていたように感じます。定住する人もいましたが、それぞれが得ていた助成金の期間が終わったら帰国する人もいて、流動的だった記憶があります。
現在は日本の離島を拠点にされていますね。
土屋 自然豊かで治安もよく、過ごしやすい環境ですが、島外へ出る際は船や電車の乗り継ぎが多く、移動に時間がかかる点は不便に感じることもあります。地元の保育園でアニメーションのワークショップも行っています。3年ほど前から行っているんです。10枚くらいのパラパラマンガを作ったり、10メートルくらいのロール紙に1本の線を自由に描いてもらって、それを撮影してアニメーションを作ったり、手探りで色々試しています。今はストーリーを考えるのが好きな子が一人いるので、そのお話をみんなでアニメーションにしようとしています。
これまでのキャリア振り返ってみて、転機となった作品は?
土屋 いつくかあります。まずは『遭難夫婦』(2006)です。専門学校を辞めたあと、海外を見て回りたいと思い、世界を旅しました。その中で訪れたカンボジアで鑑賞した伝統的な影絵にインスピレーションを得た作品です。それはヒンドゥー教の神話を表現したものだったのですが、それを自分の表現として昇華できないか試行錯誤したのが『遭難夫婦』になります。同作は「シネアストオーガニゼーション in 大阪」でアニメーション部門最優秀賞を受賞しました。その時、審査員をされていた相原信洋さんとの出会いも、自分の中では大きかったです。
また『黒いロングスカートの女』(2010)は、オタワ国際アニメーション映画祭はじめ、初めて海外の映画祭で上映された作品なので転機といえると思います。それから、中山うりさんのMV『青春おじいさん』(2016)は第20回文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選んでいただきました。それをきっかけにNHK教育テレビジョン(以下、Eテレ)での仕事に繋がったりと、活動の幅が広がりました。
それでは、ご自身で手ごたえを感じている作品はございますか。
土屋 『終わる瞬間』(2017)です。これはEテレ『シャキーン!』(2008–2022)内で放送された、馬喰町バンドの同名曲のための映像です。いろんな事象が生まれては消えていく状況を長い紙の中で表現し、表現と手法を一致させることに取り組みました。カメラワークに頼らない実験をした『青春おじいさん』の応用として、どこまでも切り絵が伸びていくということだけを決め、即興的に作りました。もう一度作ろうと思っても作れないタイプの作品です。
依頼作品と自主制作では、何か違いはありますか。
土屋 切り絵の手法はほぼ変えていません。そこに何をプラスできるのか、もしくは何を引き算すべきかを考えています。依頼でネックになるのはイメージの共有が難しいことです。例えば初期の自主制作作品である『黒いロングスカートの女』は、自分が見た夢をもとに即興的に展開させていきながら作った作品です。ありがたいことに自由度の高い仕事も比較的多く、即興的な作り方を許容してくれるクライアントもいるのですが、ある程度、事前にイメージを伝えないと相手を困らせてしまう場面もあります。
そうした事情もあり、現在は依頼仕事では絵コンテを描くようになりました。絵コンテを描いてみると、自分の手癖が客観視できて、さらにアイデアを加えることができるという発見もありました。事前にイメージを共有することで、クライアントの意見もいただきながら共同作業のようにして取り組んでいます。
短編映画やMVだけでなく、展示の形式にも取り組まれています。展示の際はどのようなことを考えていますか。
土屋 毎回模索しています。絵やコラージュは昔から好きなのですが、映像的にアイデアをひらめくことが多く、アニメーションと出会う前は苦しんでいました。自分の中で湧いてきたイメージを絵画という静止画の形に落とし込まなくてはならないと勝手に思い込んでいたので、当初のひらめきとの間にギャップを感じることが多かったんです。アニメーションと出会い、これなら自分のアイデアをよりストレートに表現できると思ったし、作っているうちに最初のイメージを未知の方向に展開させていけることもとても面白いと感じたのを覚えています。なので展示をする際も、アニメーション制作を通じて得た影響や手法で絵を描いています。素材感を見せたり、偶発性に身を委ねて手を動かしたり、フットワークを軽くして自由な絵作りをしています。
絵は動かさない前提だからこそできる自由な描き方があり、それが逆にアニメーション制作に活かされることもあるので相互に良い影響があります。また展示は、作品を販売できるというのも取り組み甲斐がありますね。
制作をはじめる際、最初に着手することを教えてください。
土屋 絵や何かの情景が思い浮かぶことが多いです。手を動かしたり、音楽を入れてみたりすることで徐々に作品の輪郭がはっきりとしてきます。自分にとって作品のテーマというのは、作品が完成して初めて明確になることが多いです。できればいつも自分自身をびっくりさせるような作品を作りたいと思っています。
影響を受けた作品や作家についても教えてください。
土屋 子供のころは長新太の絵本をずっと読んでいた記憶があります。中高生の頃はつげ義春も読んでいました。それから、東京都現代美術館で開催された「大竹伸朗 全景 1955-2006」(2006) には衝撃を受けましたね。また、2007年にロサンゼルスを旅行で訪れた際、現地で出会った人のおすすめで見たハマー美術館でのエズラ・ジョンソンの展示もよく覚えています。彼のアニメーションは切り絵にも関わらずリアリティがあって、影響を受けましたね。
他にアニメーションですと、『ファンタスティック・プラネット』(1973)、ブルース・ビックフォード、ジェイク・フライドなどから影響を受けました。今でもいろいろな作品から影響を受けていますね。
最後に制作中の新作『Hoichi』ついてもお聞かせください。
土屋 この作品は日本の古典的な怪談「耳なし芳一」が原作です。「耳なし芳一」は小泉八雲が書いた『怪談』(1904)で知られるようになりましたが、それ以前から似たような話は語られてきました。
アニメーションは古典の翻案に取り組んできた歴史がありますよね。ユーリー・ノルシュテインの未完の作品『外套』や、山村浩二さんの『頭山』(2002)などです。そういった流れの中で自分に何が作れるのかを考えた時に「耳なし芳一」が思い浮かびました。「耳なし芳一」は、わかりやすい教訓が読み取れるというよりは、読者に解釈の余地が残されているんです。怪談ですが、目が見えない琵琶法師が主人公で、マイノリティへの眼差しも含まれている。とても複雑な作品だと思います。そんな「耳なし芳一」の物語に以前から惹かれていました。
NeW NeWのアドバイザーである土居伸彰さんからは、海外の観客は「耳なし芳一」に馴染みがないので、インタータイトルの導入を勧められました。日本の古典的な物語を、どうやったら海外の観客にも理解してもらえるのか。そのことは意識していきたいです。
新作ではどんな表現に取り組んでみたいですか。
土屋 映像化にあたって、抽象アニメーションのようなスタイルを取り入れるのが面白そうだと考えています。一方で単に抽象的に展開するのではなく、キャラクターの心の流れが分かるようにしたいとも思っています。アニメーションという視覚的な表現を用いて芳一という盲者の視点をどう描けるのかが挑戦でもあります。これらの要素を組み合わせつつ、日本の土着性も表現できたらと考えています。