クリス・ロビンソン『Japanese Animation: Time Out of Mind』翻訳(3):東京、現在

2026年10月15日
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著者
クリス・ロビンソン
翻訳
新井佑季
監訳
土居伸彰

NeWNeWジャーナルでは、2010年に出版されたクリス・ロビンソン著『Japanese Animation: Time Out of Mind』の邦訳を掲載します。

🔗クリス・ロビンソン『Japanese Animation: Time Out of Mind』翻訳(2):東京、現在 ↩︎

東京、現在(大山慶)

東京、六本木。

圧倒される。身の置きどころがない。

さらに困ったことに、自分がどこにいるのかもわからない。

ホテルを見つける。

さっさと眠りについたら、やかましい夢を見た。

太った醜い若い女が、私にディープキスをしてくる。彼女は、「ケイ・オオヤマ、ケイ・オオヤマ」とささやく。キスは次第に激しさを増し、私は彼女の中へとゆっくり吸い込まれていく。魚の群れをかき分けながら、彼女の体の内を旅する。やがて視界は魚で埋め尽くされる。

やがて、押し寄せる魚の群れのすき間から、光の断片が現れる。私は魚をかき分け、その光へとたどり着く。細く狭い湿った空間をすり抜け、眩しい光の中へ出る。魚は勢いよく流れ続け、私を押し倒す。私はすぐに立ち上がり、身をかわす。振り返り見上げると、部屋の隅に裸の女が座っている。彼女の足元、私が出てきたばかりのあの空間にーー彼女の膣の中へとーー、魚たちは吸いこまれていく。1

母親……ということか?

吐き気を催しながら、ゆっくりと部屋から出る。振り返り、最初に目にしたあの部屋に駆け込む。力士が裸で床に横たわり、テレビのゲーム番組を見ている。蚊がぶんぶんと飛び回っている。声をかけるが、彼はちっとも気づかない。彼は起き上がり、タバコを吸い、雑誌を読み、部屋を掃除する。蚊はただぶんぶんと飛び続けている。私は離れられない、動けない。目はこの退屈な光景に釘付けになっていた。私はシャンタル・アケルマン2 の映画の世界にいるのか?

一瞬で全てが変わった。夜だった。私は寝室にいた。力士が眠っている。ハエがそこら中を飛び回り、床は瓶とゴミで散らかっている。どうして眠れるのか?ハエの羽音がイライラしてたまらない。耳を塞いで、じっと窓を見つめる。移りゆく光を眺める。ときどき何かが窓のそばを通り過ぎるように見える。何が起こっているのか見ようと窓に近づこうとするが、届かない。動くたびに、窓はいつも手の届かない場所にある。ガシャン。何かが落ちた。力士が目を覚まし、落ちた物を元の場所に戻す。彼はベッドに戻る。どうして、彼には私が見えないのだろうか?私は幽霊なのか?

今、私たちはダイニングルームにいる。力士が二人。彼らはテーブルについてコーヒーを飲んでいる。

一人が去る。もう一人はそわそわと歩き回る。雨が激しく降っている。立ち去った力士が戻ってくる。もう一人は髪を乾かしている。彼らは外を見る。虹。音楽。ダンス。そして、ソファでセックス。3

終わり。

これは一体どんな夢なんだ?夢なのか?現実とあまりにも似ている——裸の力士を除けばだが。

「彼らは力士ではありません」と声が言う。

声が続く:「私は、このような退屈なものの中にこそ美を見出してきました。日常の物事をより注意深く見つめることで、美しさ、グロテスクさ、悲しみ、そして可笑しみを感じることができます。私は、自分が見つけた美しさに形を与えることが大好きです。また、他の誰かが見つけた、私がまだ知らない美しさを知ることも大好きです。」

私は腰を振る力士たちの脇を通り、窓の方へ向かう。外を覗いた瞬間、窓の外に突然現れた骸骨のような姿に恐怖で凍り付く。その手と顔はほとんど見えない。窓をふわりとくぐり抜けると、若い男がいた。一緒に窓の外を見つめる。

春が近づいている。

あらゆるものが溶け始めている。

湿った雪の中に死んだ犬が横たわっている。

私は、少年が自分の頭から髪の毛を何束も引き抜くのを見つめていた。

それに飽きたのか、彼は金魚鉢から金魚を掴み取る。その魚は必死に呼吸しようともがいている。私は近づいていき、金魚の口の中の暗闇へと飛び込んだ。

夕食の時間。食事を切り裂く。血と内臓が漏れ出る。大人たちが食事を進めるにつれ、その顔が暗くなっていく。恐怖に駆られた少年と私は寝室に逃げ込む。4

私たちは窓の外を見つめる。私は少年を見る。彼の顔が暗くなり、やがて部屋全体が音もなく暗黒に包まれる。

闇の中からミミズが現れる。少年が棒でそれを突いている。手のひらにとまった虫を潰すために、彼はふと手を止める。

ある手が少年を掴み、部屋に駆け込む。女性が死にかけた少女にひざまずき、少年はその頭を優しく撫でる。5

少年は今や男になっていた。医者の診察室で静かに座っている。看護師がそばに立っている。

男は悲しそうで、不安げだった。

医者が現れ、レントゲン写真をライトボードに置く。言葉はないが、すべてが語られていた。

男は床を見つめ、膝を掻く。

私はレントゲン写真の斑点を見つめ、その中へ飛び込んだ。

部屋にはひとりの女性がいる。母だろうか?窓からは醜く歪んだ顔たちが覗き込んでいる。なにがそんなに面白いというのだろう? そんなにおもしろい/魅了されるものでもあるのか?女が、私のあざだらけの膝の手当てをしてくれているだけだというのに。

頭なしの太った女性が、仕切られた小部屋に座っている。針が彼女の皮膚に突き刺さる。全身にあざが浮かび上がる。

暗転する。

幕が上がる。二人の少年が少年と犬を演じる。犬が小便をする。少年たちは地面に倒れる。観客は笑い、担架がその少年を運び出す。

少年は診察室に戻る。先ほどと同じ場面だ。

幕が閉じる。俳優たちが礼をする。拍手が響く。
診察室。男が膝を掻く。6

声:「子どもの頃、よくこんなシーンを想像して泣いていましたーー母親が窓から飛び降りて自殺したり、重い病気で弱っていったり。(もちろん、これらは私の想像の中だけの話です。)思春期になると、自分自身の死を恐れるようになりました。そして最近、周りの人の死について考えることがまた怖くなってきたのです。」

それが、私が覚えているすべてだ。私は涙を流しながら目覚めた。悲しみに満ちていた。起き上がり、用を足し、質の悪いホテルの部屋のコーヒーを淹れた。

一体あの夢は何だったのだろう?非常に悲しく、奇妙で、日常的でありながら、美しい夢だった。バリーの死と関係があるのだろうか?死と病が夢の世界を支配していた。

夢の中のみんなは幽霊のようだった。現実的で生き生きとしていると同時に、生と死の境界に囚われているような感じだった。

突然、目覚める直前にその謎めいた声が言った最後の言葉を思い出した。

「死への恐怖が大きくなると、私は自分が自分でないような気持ちになります(眠りにつこうとするときに、それはよく起こります)。もちろんそれは幻覚にすぎませんが、本当に奇妙な感覚です。まるで大山慶という人間をはるか遠くから見つめているように、自分自身を完全な他人として認識するんです。夢に出てくる人々に感じるような、あの不安定さ。それがまさにまさにこの奇妙な感覚に似ています。」

さらに奇妙なのは、そのキャラクターたちが常に自身の死を意識しながらも、何か偉大なことを成し遂げようと急ぐでもなく、ただいつも通りの生活を続けていたことだ。力士たちは、日常の単純で、何の変哲もない場面を淡々と続けていく。それはきっと、「大きな人生を追い求めるのをやめ、ありふれた日常を受け入れよ」、というメッセージなのかもしれない。寝転んで雑誌をめくるひととき、ちょっとしたダンス、いいセックスに一服のタバコ──そうしたものの中に、人生と意味は宿る。他人には関係ないかもしれないが、それはかけがえのない個々の瞬間であり、私たちの瞬間だ。死にゆく男を見てみろ。彼は打撲した膝や、学校の劇のことを思い出していた。私にとっては取るに足らないことが、彼にとっては間違いなくすべてだった。

私たちは、日常のありふれたものを過小評価し、見過ごしてしまいがちだ。

東京、現在 (辻直之)

今日は雪が激しく降っている。どうやらここは寒冬のようだが、私には暖かく感じられる。

私は街を歩きながら、まるで故郷から何百万マイルも離れているかのような気分になっていた。

深く轟く声が私の思考を遮った「クリス・ロビンソン」。

辺りを見回すと、人々が行き先も定かでないまま、ただせわしなく歩き回っていた。私は歩き続ける。

「クリス・ロビンソン」

立ち止まり、もう一度周りを見渡す。誰もいない。

「空を見て」 

私はまた立ち止まり、見上げると、灰色の大きな雲の中に顔が浮かんでいた。 7

「私は、辻直之」 

私は頭を掻き、何も言わなかった。 

「あなたは、私のことを皆に伝えなければなりません。」 

「誰に、何を?」 

「外で私たちを見ている人々にです。」

「頭がおかしいんじゃないか?誰も俺たちを見てなんかいない。外に人が見えるか?」

「私はすべてを見ています。全体像を見ています。彼らは家、飛行機、電車、バス、地下鉄、トイレでこの言葉を読んでいるのです。」

こいつは正気じゃないが、灰色の雲の中に浮かぶ巨大な顔と議論する気にはなれない。では、辻直之について話そう。

辻直之とは誰か? 知らない。聞いたこともない。おそらくアニメーション映画祭には出してないんだろう。いつ生まれた?重要か?知りたいか?調べてみよう。待ってくれ…。

知らない誰かが、1972年だと言っている。これを信じよう。こんな感じでいいか?

あ、彼は日本人だ。まあ、それはもうわかっていただろう。

これで十分か?彼についてより知った気になるか? 

彼は背が高いのか低いのか、痩せているのか太っているのか。好きな色は何なのか?好きな曲は何なのか?どこに住んでいるのか?彼の名を持つ人は世界に一人だけなのか?チーズは食べるのか?踊れるのか?足はあるのか(彼のキャラクターの一人は腕がないが)?運転はできるのか?そして、私を泣かせたことはあるのだろうか?

それって重要なことだろうか?これらが辻直之をもっとよく知るのに助けになるだろうか?そもそも自分自身で知ることができる「自己」なんてものはあるのだろうか? デイヴィッド・ヒュームは、「人間は知覚の束である」と言った。つまり、自己とはその時々に表に出ている知覚次第で変わるものだということだ。私が知っているのは、辻直之という名の人物が、『覚めろ』(1992)と『闇を見つめる羽根』(2003)の作者であることだけだ。しかし、その同じ辻直之がこれらの映画を作ったとは断言できない。私の言いたいことがわかるか?

辻が自分の映画について何を言おうと関係ない。もうそれらは彼のものではない。彼は既にそれらを一度語り終えたのだ。

それに、彼の記憶を真実としてどこまで信頼できるだろうか?私はいつも、幼少期の鮮明な記憶が本当にあったのか、それともホームビデオやスライド、古い写真を見て自分で作り上げた物語なのか疑問に思っている。経験していない出来事を、自分が経験したと思い込んでいるに違いない。そもそも、どれだけの記憶が本当に自分のものなのだろう?他者の記憶をどれくらい取り込んで、私たちの記憶の一部になっているのだろう。

ポパイはいつも「俺は俺(I yam what I yam)」と自慢げに言っていた。いやでも、違うんだ。イメージやアイデンティティについてよくわかっているポッシュ・スパイス(訳註:ヴィクトリア・ベッカム)は、ニューヨーク州シラキュースで開催された「ヤング・ガールズ・フォー・アメリカ・フィロソフィー・ファッション(Young Girls for America Philosophy Fashion)」のカンファレンスで、こう言って皆を驚かせた。「私は私であるようで、私でない(I am as I am not)」と。8

デビッド・ベッカム、つまり博識なるポッシュのツレは、時間があるときにはソクラテス以前の哲学者について研究していて、かつて試合前、チームメイトたちにこう語った。「上る道は下る道であり、直線と曲線は同じものだ。私たちができるのは、予期せぬことを期待することだけだ。」話が分かる男の、賢い言葉である。

「ランダムでありながら、方向性はあって、未来へと向かって秩序立てられていくんです。映画の構想が最初から決まっているわけではありません。描画や撮影が進んでいくと、それぞれのイメージが次を示唆していき、映画が進むにつれ、私の中で積み重なっていくのです。」

「ゆっくり取り組むんです。落ち着いて、受け入れて、抵抗しない。ただ流れに身を任せるんです」と辻が言う。

「君の夢に招き入れてくれるなら、僕の夢にも招き入れたい」と私は言う。

これはボブ・ディランが言ったことだ。

友人は、「俺は俺だ」と言う。だがそれは正しくない。「AM(現在形)〜である」じゃありえない。少なくとも、「AIN’T(過去形)〜でない」になるまでは、あなたは常にARE(現在形)だ。AREは常に変化している。そして、あなたが何であるかは、あなたを知る人々と一致しないかもしれない。誰があなたのAREが他者のAREより正当だと決められるだろう? AM(現在形)は常にAREと共にある。

幽霊、思い出、記憶、過去の呼吸。

私はこの辻直之という男が好きだ。彼は最高のアニメーションに詰まった魅力の全てを体現している。彼の作品は原始的で少し醜いが、決して雑なだけではない。この男は自分が何をしているかをちゃんと分かっている。まるで世界の速さについていくために必死に描きなぐっているような感じだ。一つの結論を描き終えると、すぐに次の結論が現れ、それが繰り返されながら進み続ける。しかし進み続ける中で、彼が学んだものの影は残り続け、決して完全に忘れ去られることはない。新しい知識と共に、それらもまた前進し続ける。

辻の絵のスタイルは子どものようだ。アートを擁護する人々は急いで、辻の作品は決して子どもっぽいものではないと説明しようとするが、私にしてはそれは馬鹿げている。子どもたち(私たちの未来)への侮辱だ。私には子どもがいる。彼らは、私たちいわゆる大人たちよりも、世界をずっとクリアで深く見ていることがある。この間、私の9歳の息子ジャビスが「神父って精神科医と同じだよね」と言ったんだ。なかなか鋭いと思う。ほとんどの大人はそんな発想をしないだろう。いや、私は辻の絵は子どもたちのそれに似ていると言いたいんだ。彼の走り書きや思考は、子どもの落書きと同じようにシンプルで、深く、ときにバカみたいだ。だからこそ彼の作品は面白くて、親しみやすくて、なんとか兄弟やらなんとかマイエルだとかの映画よりもずっと温かみがあるんだ。

辻にはリズムもある。辻にはリズムもあると言ったが、それはフレッドとジンジャーのスウィングではない。それは「地球のスウィング」なのだ。キャラクターはぎこちなく、慎重に、あちこち動き回る。コントロールなんてできていない。それはアルバート・アイラーのような(反)グルーヴだ。辻はただ紙の上を見つめ、炭の筆圧で音符を即興で紡いでいる。リアルタイムでの再現を試みているんだ(正直なところ、アニメーションはリアルタイムではできないわけなので)。そのような挑戦が、作品にリアリティをもたらし、過剰な芸術性や自己満足から逃れている。むしろ、そこには生きている感覚がある。私や「君」(私は自分が誰か知っているが、「君」のことは知らない)のように、普通に排泄もする男を見ているような感じだ。イメージの中には、論理的で、心地よく、洞察に富んでいるものもあれば、ただ驚かせるだけの、痛々しく馬鹿げたものもある。裸の男の浮き沈みを、恥ずかしい部分を含めて丸ごと見せられているような感じだ。辻は清純派ではない。

呼吸する雲。雲は成長し、山はかすみ、影だけが残る。雲は画面全体を覆い尽くし、やがて手の形を作り、そして顔になる。子どもたちは雲を吸い込み、裸になって大騒ぎする。カップルは愛し合い、子どもが生まれ、目を閉じて雲の中に溶け込んでゆく。辻は、宇宙と私たちの「物質」が一時的で脆いものであることを決して忘れないようにする。今日ここにあっても、明日には消えてしまう。しかしそれは辻にとって決して悪いことではない。彼は、この儚い瞬間の不確かさを受け入れ、味わい楽しんでいる。男、女、子ども、鳥、悪魔、雲、性(dicks)、死。すべてがこの「生きる」というものの、同じ火山(「肉体の震え/肉の地震」)の一部なのだ。

辻は未知に対して、受け入れるどころかむしろ熱意を持って抱きしめることで、私たちを落ち着かせてくれる。アイラーのしばしば鋭く暴力的な音がもたらす圧倒的な混沌とは対照的に、辻の世界ではなぜか安らぎを感じるのだ。その混沌にはどこか慰めがある。どれだけ突飛な世界へ迷い込んでも、常に繋がりが感じられる。過去と現在の影の亡霊たちが引き裂いた形の間を通り抜けても、決して飲み込まれることはない。

音楽のことも忘れてはいけない。ミニマルな気配(peeps)が、まるで一歩引いてただ見ているだけの存在(peeps)のように、私たちの儚い存在感(PEEPness)を思い出させてくれる。それはそこにあるかと思えば、すぐに消えてしまう。でも、その去り方はとても優しい。ちょうど今、私のドアの外で湿った空気をささやく風のように。

だが、私たちは本当に見て、聞いて、感じているのだろうか?夢に現実以上に囚われてはいないだろうか?それは重要だろうか?もし現実が儚い夢に過ぎないなら、それでいい。誰があんたの「真実」を気にする?ただ、このクソみたいな流れに身を任せればいい(結局みんなそこに行き着くんだから、そうだろう?)。友人のフィリップとトーマスが言ったように、雲の中に救いはないし、髭を生やした大きな男が門の向こうで待っているわけでもない。あなたこそがそれだ。全てだ。あなたは無であり、全てなんだ。あなたはそれそのもの。だから「それ」であれ。だから「そう」であれ。そうなるのだ。あなたは自由に「ある」ことができる。

SCAR-Y.

(「そうさ、それが本当のことさ」とごろつきが言った)

辻の作品はとにかく良い。ロボットのような精度やダンサーのような優雅さで描いたりデザインしなきゃだめなんてことは忘れてしまったほうがいい。あの手のものは私には合わない。門の向こうにはいつも髭を生やした大男がいるなんてことはない(あ、そういえば、近所の古い教会のポール爺さんはそういう奴だったかもしれないけど、奴は除く。)まあ、アニメーションやアートに正しいやり方なんてものはない。辻は、この芸術形式に必要な、もっと大人ぶらずに、もっとパンクでエネルギッシュなビート精神を吹き込んでくれている。 

辻の作品は、現実の夢と、いつかどこかで終わりを迎える夢の現実を讃えている。彼は私たちを、実際には決して白黒ではない白黒の世界に引き込む。 

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辻直之について:

辻はポール・サイモンより背が高く、スティーブ・クーガンよりは背が低い。 
自転車には乗れる。 
好きなチーズもあれば、好きじゃないチーズもある。
まだ私を泣かせたことはないが、おそらくそのうち泣かせるだろう。 
好きな色はグレー(「動きがある色だから」とこの前夢の中で理由を教えてくれた)。
ツジナオユキ9 という名前の人は、かつてハドソン・ソフトUSAの社長だった。
彼は踊るとき、まるで片足だけで立っているかのような感覚になるらしい。
好きな曲は、(ボブ・ディランの)「Talkin’ World War III Blues」。
静岡生まれ。緑茶で有名な街だ。 

「以上です。」 

「いいね、ありがとう。」

東京、現在(水江未来)

雲が突然、目もくらむような速さで渦巻きながら回転し始める。渦潮のように自らの中へと閉じ込められていく。やがて、そこには青空だけが残った。

私はうつむいて歩き続けたが、若い男とぶつかってしまった。彼の手には、美しく渦巻くディスクがあった。

「水江未来です。ぜひ私のディスクを覗いてみてください。」

そのディスクは催眠術のようだった。色とりどりの形が迷路のように入り組み、互いに流れ込み合っている。私はその絵の道に迷い込み、次第に深く引き込まれていった。さらに近づくと、色鮮やかな万華鏡に飲み込まれるような感覚が押し寄せた。すると突然、若い少女が私に声をかける。「結婚してくれる?」彼女の帽子は、ぱっと色鮮やかな庭へと広がった。私が応える前に、彼女は姿を消してしまった。

「私は自分自身にとても興味があります、私は何でできているのか?」と水江は囁く。「私の体は60兆もの細胞からできていますが、どの細胞が心や魂、感情を担っているのか、常に疑問に思っています。私の中には細胞以外にも何かがあるのだろうと確信しています。それは目に見えない要素です。細胞のように目に見えるものではなく、社会や文化、歌、絵のようなものを生み出す、目に見えない要素です。」

選ぶ間もなく、私は道に流されていく。最初は道が少なかったが、やがて新しい道が現れ、交差し、重なり合う。色の洪水。

四角い形の中に、目のようなものが見える。特徴的な反復するイメージ。その目はセル(セル画)/細胞であり、人間やあらゆるものの内部を映し出している。裸を超えた、肉体のない存在たちが、私の周りを歩き回っている。まるで万華鏡のような顕微鏡を通して世界を見ているようで、普段の目が見せる以上に深くまで見ている気がする。X線のように、私たちの身体の本質を映し出す。透けて見える姿。すべてが互いに流れ込み/出入りし、やがては一つになる。このランダムさの中に、混沌と秩序が共存している。

 声:「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。」10

リンゴは罪だ。誰もがリンゴをひとかじりする。私たちは皆、罪を犯す。それは避けられない。

水江は頷く。「普段、意識しない人もいますが、罪は避けられないものです。刑法は行為を裁きますが、罪は人の自然な要素です。これこそが、私が先ほど話した目に見えない要素の一つだと思います。私たちの本質については常に議論がありますーー私たちは根本的に善なのか、それとも悪なのか。私の答えはどちらでもありません。人間とは不完全な存在なのです。」 

私たちの生命は食らい尽くすことに費やされる。私たちは食べ、そして食べられる。食べることは生と死だ。食べる者の生、食べられる者の死。「食べることは殺すことだ」と水江は言う。「この行為は毎日無意識的に繰り返されています。生きている限り終わらない。生きるということは殺すことです。アメーバが生きる微小な世界から、私たちが暮らす社会にまで、同じ構造が至る所に存在しています。」

互いに溶け合い、離れていく。これらのつながりのランダムさ。誕生のランダムさ。奇跡的に生まれたこと。それぞれの存在の確率は、途方もなく低い。

「その通りです」と水江は言う。「世界は秩序と混沌の塊で、崩壊することなく存在しています。(もしかすると、ゆっくりと崩壊の状態に近づいているかもしれませんが…)それは人類の歴史、私自身の人生、そして身体を構成する細胞の中にも見て取れます。」

木々、石、草たちが踊り、跳ね、動く。

都市が動く。色、形、秩序。

退屈。

不変。

「高層ビルの屋上から東京の街を見下ろすと、私が住むこの世界の混沌を感じます。その世界の中にいる限り、それを感じるのは不可能でしょう。しかしこの視点からなら、自分がいる場所を理解することができます。枝分かれをした道路が建物の間を縫い、その上を無数の車が走っている。それらはまるで血管や血液の流れのようです。外の世界を見れば見るほど、自分の内側も理解できる気がしています。おそらくそれは、私と外の世界が完全に切り離されていないからでしょう。私たちは互いに関連し合っているのです。それはまるで、人間の体が60兆個の細胞からできていて、人間はその世界を形成する多くの細胞の一つであるようだ、と思うんです。」

一時的な永続性。永続的な一時性。

社会は私たちが変わるにつれて変化する。

傷つき、壊れた自然は、それでも残る。






1 『nami』(2003) 平田優との共同監督作品。

2  シャンタル・アケルマン(Chantal Akerman, 1950-2015)はベルギー出身の映画監督。代表作の一つである『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Brussels, 1975)は、女性の3日間の日常を、固定カメラによる長回しでリアルタイム的に描いた作品である。日常の反復と緊張が特徴。

3  『いつもの日曜日』(2003) 平田優との共同監督作品。

4  『ゆきどけ』(2004)

5  『ゆきちゃん』(2006)

6  『診察室』(2005)

7  『3つの雲』(2005)

8  カンファレンスや発言は著者によるフィクションで、実際のものではない。

9  辻尚之(1952-  )のこと。英語表記では辻直之と同姓同名である。

10  新約聖書「ヤコブの手紙」1章15節からの引用。


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